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YST での「手話コーラス」検索結果に対する操作が止んでから一年たった。本当は小さい妨害行為はいくつかあったのだが、大きなものは無くなった。それも「止めなければ、スキャンダルを公開する」と書いてからは、小さいものも無くなった。まだ気がすまない少数の工作員が残っていて、2ちゃんねるとかスラッシュドットあたりで、シツコクちくちくとやってはいるが。
それにしてもきちんとした道理の話は通じなかったのに、こういう損得勘定がからむと、とたんに態度がかわるってのは、何とも情けない話ではある。
まあ、今はこういう下劣な連中のことはさておこう。
妨害行為を受けている最中、なぜこんな事をするのかの理由を考えると共に、なぜ今の手話コーラスでは音楽が伝わらないのかも考えていた。妨害行為をする理由と表裏一体の関係にあるので、どうしても真剣に考えざるをえなかったのだ。
そうして考察を繰り返した結果、三つの要因にまとめることができた。基本的には、「間違いだらけの手話コーラス」「今後のための提言」ですでに書いたことの延長線上にあるものだが、今回のほうがよりしっかりした内容になっていると思う。さらに、きちんとした解決への道筋も示したつもりだ。
手話関係の電子掲示板でよく見る FAQ (よく出てくる質問)がある。
「この歌詞の手話表現を教えてください」
というヤツだ。
もうわかるだろう。そう、手話と日本語の単語を一対一の対応で変換できる、と思っているのだ。
手話と日本語は別の言語であり、同じ日本語でも文脈や言葉の解釈次第で手話の表現はいくらでも変わる。そんなことは、日本語と英語の関係を考えればすぐわかることではないか。
まあ、初心者らしい勘違いだと言うことはできる。
実はこの勘違い、他ならぬ手話コーラスをやっている人たちが自分からミスリードしているものなのだ。だから、勘違いしている初心者を非難する気は無い。非難すべきは、初心者を積極的にミスリードしている、手話コーラスをやっている人たちなのである。
手話を知らない人が手話コーラスを見ると、歌に合わせて手話を表現しているのがわかる。これを見て、手話そのものはわからなくても、歌詞と手話表現は対応しているな、という印象を持つことになる。ここから、日本語と手話は単語単位で一対一に対応できる、と思ってしまうのだ。本当は全然違うのだが、手話が読めないのだから、その辺のことは気づかない。
加えて、本屋に行って手話コーラス関連の本を手に取ると、そこには歌詞と手話表現を単語単位で図解している。こうして「やっぱり手話と日本語は対応しているんだな」という印象を強めてしまう。
実は、手話歌・手話コーラスのことをきちんと正しく解説した本は存在しない。はなはだ残念なことだが、事実だ。どれも、手話歌の歌詞と手話表現を対応させて図解するという作りになっている。そして、手話と日本語は別の言語であり、手話表現は状況によって変わるということをきちんと説明していない。
これでは、初心者が誤解してしまうのも無理ない話ではないか。
僕だって、ちゃんとした手話歌の本は必要だと思っている。初心者を正しく導き、誤解を与えない本が必要なのだ。しかし、そういう本をだれも作ろうとしない。必要なのに、作らない。こうして、ずるずると、手話そのものを誤解している初心者を大量生産し続けてしまっている。
手話コーラスをやっている人たちは、
「自分たちが手話コーラスをやっているから、多くの人が手話に関心をもってくれるのだ。手話コーラスをとっかかりにして、手話をやればいいではないか。」
と主張する。
が、事実は逆だ。手話を誤解する人を大量生産してしまっている。
実は、手話コーラス発表の場に問題がある。
今では、聴覚障害者のイベントで手話コーラスをやることは少なくなっている。聴覚障害者自身が手話コーラスのあり方に疑問を感じており、自分のイベントに手話コーラスを出さなくなったからだ。その結果、手話の事など全然わからない一般の人を対象としたイベントで手話コーラスをやるようになっている。当然、手話を知らない人が手話コーラスを見て誤解してしまう結果となる。
本当は、こういう誤解を防ぐために手話コーラスをやった人たちが、発表の場で自分からきちんと解説しなければいけない。手話表現と歌詞は別々のものであることを、きちんと説明しなきゃいけない。そして耳の聞こえない人に音楽を伝えるのは難しいことであること、自分たちはまだ伝えられるレベルにないことを言わなきゃいけない。
……でも、言わない。投げっぱなしにして、あとは誤解させたまま放置している。こうして誤解は拡大再生産されていく。
言えない理由は、わかる。手話コーラスの存在理由を自己否定してしまうからだ。
「耳の聞こえない人にも、手話コーラスで音楽を伝えられます」
がウリなのに、音楽を伝えることができてない事を白状するようなものだから。こういう矛盾が、手話コーラスに抜きがたくある。
こういう矛盾を解消する方法は、次の章で述べる。
実は、これでは耳の聞こえない人に音楽は伝わらない。
それどころか、変な手話表現になってしまって意味が読み取れないものになってしまう。
実はこの部分に、ろう者と手話コーラス者との間での議論のすれ違いが、以前からある。
実はこれ、どちらも一部は正しく一部は間違っている。だから、議論がかみ合わないのだ。
まず、手話コーラス者の主張の誤りを指摘する。手話コーラスの手話が読めないのは、日本語対応手話だからではない。
僕が手話を学んだのは、大学に入ってからだった。だから僕の場合、日本語対応手話から入っている。伝統的手話の習得は、その後になっている。
その日本語対応手話に慣れている僕でも、手話コーラスの手話は読めないのだ。
次に、ろう者の主張の誤りを指摘する。手話コーラスの手話が読めないのは、手話の文法が誤っているからではない。もっと根本的な所に間違いがあるのだが、それを「文法のせい」という表面的な理由にしてしまったため、主張が手話コーラス者に伝わらない。
手話コーラス者にしてみれば「え、手話文法!? 何それ、関係ないじゃん」で終わり。説明がまずいのだ。
原因は「文法」なんて表面的なものではない。もっと根本的・生理的な所にある。
よく言われている言葉だ。しかし、手話を初めて学んだ人にとっては、実感のわかない言葉でもある。それでも、学習が進むにつれて、実感を持って納得できるようになっていく。
実は、この過程で手話学習者の脳内に変化が起きている。手話を扱う言語中枢が発達してくるのだ。すると、手話をいちいち日本語に置き換えなくても、直接に手話として考えることができるようになってくる。
複数の言語を使うバイリンガルなら、すぐにこの言語感覚は理解できるだろう。
この言語感覚を理解できない人のために、少し説明する。
算数の問題で「6×7 =」を見ると、パッと「42」という答が頭に浮かぶだろう。実際には「6 たす 6 たす 6 たす 6 たす 6 たす 6 たす 6 は……えーと」とかいった考え方はしていまい。中間の計算の過程など全くなしに、直接答が頭に浮かんでくるのだ。
手話でも、学習が進むとこれに似た現象が出てくる。いちいち日本語を介さなくても、頭の中で言葉としての手話のイメージが直接出るようになる。こうなれば、ろう者との手話での会話もだいぶスムーズにできるようになってくる。
もちろん、文法もこうした手話の学習に大事な要素ではある。だが通常は、会話の際にイチイチ文法を考えてはいまい。だから、ろう者が文法の話を持ち出しても、説得力は持たない。
さて、こうして手話の言語中枢を獲得した人が、手話コーラスを見るとどうなるか。
耳の聞こえる人なら、聞こえてくる歌詞をとっかかりにして、手話の動きを解釈しようとするだろう。
では、ビデオに録画して、音声をカットして再生したらどうだろうか。その場合は、ちんぷんかんぷんで全然意味が取れなくなってしまう。実は、ろう者にもこの時と同じ現象が起きているのである。
そこに見えている手話コーラスの動きは、確かに手話っぽく見える。見えるけども手話じゃない、何か別のもの、意味がとれないナニか。そういう風にしか見えない。頭の中で言葉のイメージにならない。
手話を勉強していない人には、わからない言語感覚だろうと思う。でも、そういう感覚は本当にある。生理的に「これは手話じゃない、言語じゃない」という実感がわいてくるのだ。この感覚は体感的なものなので、本人は、自分の感覚は間違ってないと主張できる。
ろう者たちが「手話コーラスのは手話ではない」と言っているのは、この事を指しているのだ。
ここまで来れば、この問題の解決方法はおのずと明らかだろう。
きちんと手話ができるようになってから、改めて手話歌に取り組むべきだ。
実際には、世の手話コーラスは、これとは逆のことをしている。
まだろくに手話ができていない初心者が、イキナリ手話コーラスに取り組んでしまう。指導者も、これを当たり前のこととして怪しまない。やるべき順序が、逆なのだ。
そうするとどうなるか。
手話を知らない人に合わせた手話表現になってしまう。当然、手話の言語中枢をきちんと獲得できている人から見ると、むちゃくちゃなものになる。が、やっている本人は、そのむちゃくちゃさがわからないので平気なのだ。
今、手話コーラスや手話歌をやっている人たちで、手話はまだまだだけど本気で学びたい人も相当数いるだろう。そういう人には、まず手話学習を優先して、手話歌はしばらくお預けにすることを、心から勧める。手話歌をやるのは、手話の言語中枢を獲得したあとの楽しみに取っておいてほしい。
そうしないと、きちんと手話ができるようになった時に、過去の自分の手話コーラスのビデオを見て、恥ずかしさのあまりにのたうちまわる羽目になっちゃうよ。
「ぐゎー、なんだコレ。こんなの手話じゃねぇ!!」
冗談ぽく書いているが、半分本気である。アンケートを採っていないから断言できないが、こうして手話歌を止めてしまった人が相当数いるはずだと思っている。恥ずかしいから、自分からは言わないだけで。
まあ、本当は手話の言語中枢を獲得したからといって、すぐに音楽が伝わるものでもないのだが……。とにかく手話言語の獲得から始めないことには、何も始まらないからなぁ。
「聴覚障害者は手話がうまいから有利なのはあたりまえだ」という、よくわからない反論がある。さすがに、こんなくだらない反論はウェブ上では見たことがないが。たぶんこれは、僕が先に「手話歌のコンテスト」で指摘し、間違っていることを説明した結果なんだろうな。
これまでの話で、もうおわかりだろう。まだ手話が習得できていないうちからイキナリ手話コーラスをやり始めるから、ダメなのだ。手話がきちんとできるようになってから、改めて手話歌に取り組んでほしい。
実は、音楽観は学習の産物である。本能で備わるものではない。
学習は、重要だ。今ではほとんどの人は学校で音楽教育を受けている。これが当たり前の事になってしまっている。しかしろう者たちは、学校ではまともに音楽教育を受けていない人が多い。形だけ受けてはいても、音楽教室ではお客様扱いで、音楽の事などわからないままで終わってしまう。したがってろう者には、音楽についてあまり良い思い出のない人がたくさんいる。
こういう人に対して、いきなり音楽を伝えようとしても、無理な話なのである。音楽をどう受け取ればいいのか、わからないのだから。江戸時代の町人に、イキナリ「走れ!!」と命令しても走れないのと同じなのだ。
「江戸時代の町人は走れない」という話に、めんくらった人は多いと思う。が、本当の話だ。彼らは、急ぐときは早足になるが、走らない。走れるのは武士とか飛脚といった一部の人に限られている。「走る」という訓練を受けていないからだ。
今のようにほとんどの人が走れるようになるのは、実は明治になって学校制度が普及してからの話である。学校の体育で走る訓練を受けるようになって、今のようにほとんどの人が走れるようになった。
このように、学校の教育は大事だ。ほとんどの人が音楽を楽しむことができるのも、学校で音楽教育を受けてきた産物なのだ。耳の聞こえない人たちは、この音楽教育を受けることができていない。
それでも、曲がりなりに音楽観を持っている聴覚障害者は、少数ながらいる。健聴者と同等になろうとして、厳しい難聴児教育を受けてきた成果なのだが……陰でどんな辛苦を重ねてきたのだろうかと思うと、涙を禁じ得ない。
さて、音楽観を獲得した聴覚障害者は、手話コーラスを喜ぶだろうか?
もちろん、喜ぶ人もいる。が、喜ばない人もいる。僕自身は喜ばない方に入っているし、他にもそう言う人がいる。理由は簡単。手話コーラスに音楽が感じられないからだ。
この問題に対して、手話コーラスをやっている人たちはこう主張する。
「それは個人の好みの問題だ。好きな人だけがやればいいし、そう言う人のために手話コーラスをやる。」
本当に、個人の好みの問題だと言えるだろうか?
実は、おそらく無意識のうちにだろうが、無視している大きな前提がある。きちんと音楽を伝えた上で初めて、正しく音楽が好きかどうかを判定できるのだ。この前提が成り立っていない。きちんと音楽を伝えていないのに、どうして好き嫌いを判定できようか。
音楽に対する好き嫌いは、手話でちゃんと音楽を伝えることができるようになってから、改めて問うべき質問なのだ。今の段階では、「好き嫌いの問題だ」でかたづけるのは、まだ早い。今は、耳の聞こえない人たちにどうやって音楽を届けるのかを考えるのが、先なのだ。
好き嫌いの問題を、音楽を伝える努力をしない言い逃れの口実にしてはならない。
さて、耳の聞こえない人たちに音楽を伝えるには、音楽教育も重要だということは理解していただけたと思う。音楽がわかる聴衆を育てる必要がある。
手話歌を受け取るほうも、どうやれば音楽を感じることができるかを習得する必要がある。しかし、従来の手話コーラスは、この点をなおざりにしてきた。音楽が通じなければ、それをろう者たちのせいにしてしまい、切り捨て、無視してきた。
これは、自殺行為だ。わざわざ自分から、受け手となる聴衆を切り捨ててきたのだから。聞いてくれる人がいないのに、手話コーラスを続ける意味があるのか?
実際、すでにこの問題があることに気づいて、実践している手話歌の団体が存在する。
彼らは、手話で音楽を伝えるテクニックを磨いているだけではない。自分たちの発表の場に、ろう学校の生徒たちを招待したりしている。こうして音楽を楽しむことを教え、なじませる。
ろう学校の方でも、子供たちに音楽の楽しみを教える教育を模索している先生がたがいる。「ひよこっち」のように、耳の聞こえない子供たちを集めて、手話歌を楽しませる試みもある。このように、さまざまなところで、音楽を育てる試みがなされている。
本当に耳の聞こえない方に音楽を届けたいと考えているのなら、これに協力してほしい。
さて、ろくに音楽教育を受けられずに来た成人の方だが……これは難しい。正直、僕にも良い案はない。
ただ、手話コーラスは楽しめなくても、カラオケならば喜んでやるろう者はけっこういる。カラオケをとっかかりにすることはできないものか、と思う。
これまでの手話コーラスは、聴覚障害者の気持ちを無視して自分勝手なことをし続けてきた。ろう者に通じない手話を、平気で公の場で使い続けてきた。手話を知らない人たちに、手話の間違った知識を植え付けてきた。
今後は、そうしたことは許されない。聴覚障害者たちの、手話コーラスに対する見方が変わってきたからだ。いくら僕をたたきつぶそうが、この見方はもう消えない。
なぜ、自信をもって「この見方はもう消えない」と断言できるのか?
わかりやすい例として、欧米人の肩こりの話をしよう。
従来、欧米人には肩こりが見られなかった。これまでは、体質とか生活習慣の違いだろうということですんでいた。が、わりと最近になって、欧米人にも肩こりがあることが判明した。
彼らに、日本人の肩こりについて具体的にどんな症状なのかを説明し、わりと肩こりに悩む日本人は多いことを話しておく。すると、彼らもひどい肩こりに悩まされるようになったのだ。
つまり、欧米人にも前から肩こり自体はあった。ただ「肩こり」という概念がなかったので、気づかれてこなかった。日本人から肩こりがどういうものかを教わり、これが自分にもあてはまることに初めて気づいたのである。
実は、以前からもマッサージ師は、欧米人でも肩がこっている人が多いことに気づいていた。欧米人には、肩がこっているという自覚がなかっただけなのだ。
心身症と文化の関係の話として有名なんだが…… 今ウェブ検索してみると、この事を知らないまま「欧米人には肩こりがない」と、ワケ知り顔でトクトクと書いている人が多いなぁ。
手話コーラスについても、これと同じことが言える。
本当は、従来でも漠とした不満感を持っていたのだ。しかし聴覚障害者にとっては、音楽という不得手な分野での話だったので、自信がなかった。「コレはそういうものなんだろう」ということですましてきた。
そこに、僕の「手話コーラスについて調べ、考えてみた」を公開したところ、ろう者の手話コーラスに対する不満がウェブ上であちこちから続々と出てきた。欧米人が「肩こり」の概念を獲得したのと同じように、ろう者たちも手話コーラスに問題があることを、きちんと自覚できるようになった。僕のサイトが、彼らにハッキリした概念を与えたのだ。
いくら僕のことを否定しようが、いくら妨害行為をしかけようが、この概念はもはや消えることはない。
それとも、日本全国をまわって、聴覚障害者をかたっぱしからつかまえて洗脳するつもりなのかな? いくら何でも、そんなマネはできっこあるまい。
僕としては、妨害行為に注ぎ込まれてきた金と労力がもったいないと思う。本当に、つくづくもったいない。最初っから、ちゃんとした手話歌を完成させることに、使ってほしかった。
もう、妨害行為なんてくだらないことをしないで、ちゃんとした手話歌を完成させることに力を注いでほしい。
もちろん、きちんとした議論なら大歓迎である。
[記:2008年1月14日]
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