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手話コーラスについて、けっこう間違った考え方をしている人は多いようです。
ことわっておきますが、僕自身は必ずしも手話コーラスを否定するものではありません。ろう者の気持ちにも伝わるような、本当にきちんとした手話コーラスならば、むしろ広まってほしいものだとすら思います。問題は、この「きちんとした手話コーラス」を見ることが意外にない、ということにあるのです。
手話コーラスは広まっているのに、その広まった手話コーラスのありようが何かおかしい……。では、どこがおかしいのでしょうか?
それを明らかにするのが、このページです。
いいえ。
へたな人がかなりいます。全員がヘタだというわけではないのですが。と言うよりは、手話がうまい人がいないと手話コーラスは成り立たないのですから、うまい人がリーダーとなってはいます。でも、それ以外の人はヘタ、というのがよくあるケースです。
もしかすると、世の中にはへたな人しかいない手話コーラス団体さえ、あるかも知れません。僕には見たことがないだけで。手話コーラスの本を買ってきて、仲間うちでそれをそのまま真似している、という所もあるかも……。
いいえ。
というか、手話コーラスだけでは手話の勉強にはなりません。ジャズをやってれば英語がうまくなるわけではない、というのと似たようなもの、と言えばおわかりいただけるでしょうか。
音楽的な雰囲気を出そうとしているので、日常的な手話の動作とは違っているのです。ですから、手話コーラスだけはうまくなっても、手話の会話能力の向上にはなりません。
実は、こういう人がやってる手話コーラスも、へたなんです。(^_^;A
手話を知ってる人から見ると、手話がへたな人がやっているのがモロバレなのです。それに手話がわからない人が見ても、よく観察すれば手話の動作がそろっていないことがわかるはずです。動きのタイミングが他の人より遅れたり、目線がそろってなくて他の人の動きを目で追いかけたりしています。手話の動作をきちんと覚えていない証拠です。
コーラスなのですから、動作が一致しないというのは致命的なミスなのですが、平気でこれをやっているケースをよく見ます。音声のほうのコーラスで言えば、一人一人の声がバラバラで全然ハモっていないようなものなのです。
(そうか、モロバレなのか…… _| ̄|○ そうと気づかないで手話コーラスやってたよ)
ステージの下から、手話の動作を指揮しているケースもあります。うまい人が動作を見せることで、ステージの上で演じている人がそれをトレースするわけ。でもねぇ、アレはやめてほしいなぁ。幼稚園のお遊戯みたいでみっともない。
それに、ここでも目線の問題が出ます。指揮している人のほうばかり見てしまうのです。目線もまた、手話表現に大事な要素なのです。それが特定の方向ばかり見てしまっては、手話表現になりません。
これをさも手話コーラスの正式なやり方だ、みたいに書いてたウェブページを見た覚えがあります。けっこう広まっているやり方らしいですね。今、このウェブページを探してみたけど、見つからない。さすがに恥ずかしい方法だと気づいて、自分から削除したんでしょうね。
いいえ、教えてくれません。
世の中には手話コーラスも教える手話講習会もあるかも知れませんが、大部分の手話講習会は教えないはずです。少なくとも、東京都の手話講習会のカリキュラムには、手話コーラスは入っていません。東京都の場合、手話講習会で教える教程は都内で共通して決まっており、指導者コースの講習を受けた人が講師として教えることになってます。ですから、東京都の手話講習会では手話コーラスを教えることはありません。
そもそも、こういう講習会は手話通訳できる人を養成するのが第一の目的であり、手話コーラスはこの目的にそわないわけです。
喜ぶ人もいますが、喜ばない人もいます。
喜んでいるように見える人でも、必ずしも本心から喜んでいるわけでなくて、おつきあいで喜んでいるように見せているだけかも知れません。また、手話コーラスが好きでない人もけっこういるのです。
聴覚障害者の情報誌「いくおーる」というのがあります。この No.36 が「音楽ってステキ!?」という特集をやってました。この中に、手話コーラスについてのアンケートがあるのです。これを見ると、ろう者の27%、聴者の35%が「聴覚障害者には楽しめない。遠慮してほしい」という意見だったのです。数としては、肯定的な意見の人の方が多いのですが、否定的な意見の人も無視できないほど多数いるのもまた事実です。
大部分の手話コーラスは、音楽を伝えるものになっていないからです。
実は、聴覚障害者にも音楽に対する欲求があります。でなければ、カラオケなら喜んでやる聴覚障害者が、意外にいる事実を説明できません。が、手話コーラスではその欲求を満たしてくれない、という思いがあるのです。単に歌詞を通訳しているだけでは音楽にならない、というわけです。
エンターティンメントです。
ボランティアとか手話の勉強といったものとは、別のものとして考えるべきです。別になくても、生活上は困りません。しかし、精神的なうるおいをもたらす娯楽としてあってもいいでしょう。
ですから……手話がうまくなろうというつもりなのでしたら、それは手段が間違ってます。手話コーラスは手話学習のためのものではありません。まじめに手話講習会で勉強してください。聴覚障害者のために役立とうというつもりなのでしたら、おやめなさい。手話コーラスはボランティアではありません。
エンターティンメントなんですから、まず聴覚障害者が楽しめる事を考えるべきなんです。そして、自分も楽しめるものであるべきです。
しかし残念ながら、この最低限のエンターティンメントすらできていない手話コーラスが多いのです。
実は、これが一番根本的で重大な意味を持った難問なのです。
ですから、いの一番に出てくる質問だとは承知してますが、あえて一番最後にしました。おそらく、すんなりと答えられる人はあまりいないでしょう。もしいるとしたら、きっとその人は問題の深い意味がわかってないで、表面的な理解だけで答えているのだと思います。
なぜ難問なのか?
その質問を別な形に置き換えると、こうなります。
「音楽の何が伝われば、音楽がわかったことになるのか?」
これで難問の難問たる由縁が理解できた人、キミはするどい。そう、「音楽とは何なのか」という根元的な問いにつながってくるのです。音楽観が問われる質問なのです。
「音楽とは、音である」と考えるなら、残念ながら手話コーラスでは音楽はわかりません。あくまでも、歌詞を手話で表現しているにすぎないのであり、音そのものを伝えているわけではないのですから。
ですが、「聴覚障害者にも音楽があるはずだ」と考える人もいます。そしてろう者にも楽しめる楽器が存在します。太鼓です。ですから、自分の楽器として太鼓をやっているろう者の団体もあります。音そのものは聞こえなくても、体に響く太鼓の音でリズムを理解します。リズムもまた、音楽の一つなのです。
それに、こういうのは実際にやってみないとわからない事も多々あるわけです。そもそも、「ろう者に音楽は無理だ」と最初からあきらめていたら、自分の楽器としての太鼓を見つけ出すこともできなかったはずです。ですから、いろいろな人が、いろいろな方法で、音楽を見つけ出そうと努力しています。
手話コーラスもまた、そのための方法の一つなのです。まだまだ、模索の途上なのです。
おそらく、音楽にかかわる人たちにとって、何度も立ち返っては自らへ問いを繰り返している問題なのだと思います。
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