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現在広まっている手話歌は、初めから耳の聞こえない人に音楽を伝えるつもりが無い、偽善的なものが多い。そのため、手話歌を嫌うろう者もまた多い。
が、手話歌について肯定的なろう者もけっこういる。これには、深い歴史的背景がある。これを説明したい。
このウェブサイトでは、音楽を伝えない手話歌に対して批判をしている。手話歌が嫌いなろう者が多い事も説明している。が、ろう者の中には手話歌に対して好意的な意見を持つ者もいるのも、事実だ。
いや、最近の「手話ライブ」「手話パフォーマンス」に対する好意ではない。手話歌に対する好意なのだ。なぜ、こういう人がいるのだろうか。
もちろん、中には音楽を伝えない偽善者と利害を一致するろう者もいる。芸能界とつながりが深い職業についており、手話歌を広めたい芸能関係者とともに手話歌のステルス・マーケティング(隠れた宣伝行為)に励むろう者も、残念な事だが、実在する。
または、ろう文化に誇りを持たず、ひたすら健常者の言いなりになることを良しとする、アンクル・トムのような人もいるだろう。ここで言う「アンクル・トム」は、蔑称だ。もともとはアメリカ黒人の言葉で、社会の優越階級に対して追従するような人を指してさげすむ言葉である。
だが一方で、きちんとろう者としてのアイデンティティを持ち、ろう文化に誇りを持っている人たちの中にも、手話歌に対して好意的な人がいる。どうして、こういうろう者たちがいるのだろうか。
実は、こういうろう者たちには、はっきりした共通点がある。彼らはキリスト教徒だ。
そう、彼らはキリスト教会の中で手話賛美歌を見ているのだ。
日本の手話歌の起源は、昭和七年にまでさかのぼることができる。このことは「手話歌・手話コーラスの歴史」のページの中の「最古の手話歌」に、すでに説明してある。
日本で最初に手話歌を作った高橋潔先生は、大阪市立ろうあ学校の校長をつとめ、ろう教育に尽力された方だ。そして、当時の口話法教育に傾注する流れに抵抗して、最後まで手話法教育を守った偉人でもある。
高橋潔先生の著作を読むと、宗教教育を重視していたことがわかる。ろうあ者の感情・道徳観念の育成には宗教的情操が必要とされていた。特にどの宗教かにはこだわっていなかったようで、「本校の教員採用に際し第一の条件は宗教を持つ人であります。何宗教何宗派でも結構です」とされていた。
この考え方の延長として、ろうの子供にも音楽が必要だと判断され、キリスト教会で賛美歌を手話歌にした。たまたま試しに歌を手話で表現してみた、なんて単純な話ではないのだ。ろうの子供の心理まで深く観察・理解し、必要だと判断した上での確信的な行動なのだ。
この高橋潔先生が作られた手話賛美歌が、今もなおキリスト教会に伝わっているという。
実を言うと、キリスト教会の手話歌がろう者に音楽を伝えるものになっているのかどうかは、僕は懐疑的だ。確かに、世の手話歌とは違う独自の表現もあるらしい。しかし、技術的には大きな違いはなさそうだ。
キリスト教徒のろう者も、この辺がわかっているのだろう。彼らは、音楽を伝える手話歌だとはあまり主張していない。
しかしキリスト教会の手話歌は、ろう者に対して非常に大事な役割をはたしている。
手話賛美歌は、ろう者に対して大事な宗教体験をもたらしているのだ。
手話賛美歌によって、ろう者は自分もまたキリスト教徒であることを知り、キリスト教コミュニティの大事な一員として迎えられていることを知り、神の加護をともに受けている仲間と一体感を持つ。
こういう宗教による魂の救済に比べれば、音楽を伝えているのかどうかなど、じつにどうでも良い些細な事でしかないと思う。
世に流布している、耳の聞こえない人に対して初めから音楽を伝えるつもりのない偽善的な手話歌とは全く違う、本当にろう者たちを暖かく迎える手話歌が、ここにある。
では、ろう者に対して手話賛美歌をやれば良いのかというと、そうはいかない。
手話賛美歌は、キリスト教徒のための手話歌なのだ。信仰のためのもので、宗教とは無関係な場には、そのままでは使えない。キリスト教など興味のない聴衆に対して、手話賛美歌をやったところでしらけるのが落ちだ。
手話賛美歌は、宗教活動の場の中でしか使えない。
耳の聞こえない人にもきちんと音楽を伝えるための手話歌をやるのには、残念ながら手話賛美歌はあまり参考になりそうにない。宗教的感興は抜きで、音楽そのものを伝える工夫がどうしても必要になるのだから。
世の手話歌を利用しようとする偽善者が、なぜキリスト教徒のろう者の存在を主張しないのだろうかと、以前から疑問に思っていた。「音楽を楽しむろう者が、ここにちゃんといるじゃないか!!」と、なぜ言わないのだろうか。
しかし自分で書いてみて、「なるほど」と苦笑とともに納得がいった。偽善者は、宗教には関わりたくないのだ。自分に利益を誘導するのが目的であり、そのために大衆を操作したいのだ。宗教なんて抹香臭い代物をやっても、宗教に無関心なほとんどの大衆には無視されるのが落ちだ。商売にはならない。彼らにも、それがわかっているから、宗教的な手話歌には最初から手を出さないのだろう。
ホントにどーでも良いことだが、誤解する人が出るかも知れないので。
僕自身はキリスト教徒ではない事を、ここに明言する。
僕自身の宗教観は、日本古来の神道に近い。仏教も信じるし、キリスト教の行事であるクリスマスも平気で参加する。山中で石仏に手を合わせたりもするし、山上の聖域の
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