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今後のための提言

本当は、手話コーラスをどうするかは手話コーラスをやっている人たちが自分で考えて決めるべきものであり、僕が出しゃばるような事ではないのはわかっているのですが……。
でも、手話コーラスはすでに二十年以上も停滞してしまっています。何の発展もないままずるずると時が過ぎ去っている、という状況なのです。やってることは、手話コーラスが世に紹介された1970年代の頃とほとんど変わっていません。このまま手話コーラスをやってる人たちの自覚を待っているだけでは、手話コーラスは滅びてしまうでしょう。

そうならないためにも、あえていくつか苦言を呈したいと思います。

手話コーラスは手話普及のための宣伝塔でなくなっている

ろう運動についてあまり知識のない人には「なんのこっちゃ?」でしょうけど、意外に重要です。手話コーラスが置かれている現状を認識していただくために、まずこれを知っていただきたいと思います。

二十年も前は、手話は社会的に認知されていませんでした。ちょいとでも手話を習った人なら、このあたりはご存知ですね。手話講習会でも、これは必ず教えているはずですから。
ろう者たちは、自分の意見を社会に伝えるためにも、手話通訳ができる人材を養成する必要がありました。そのために、手話講習会や手話サークルを作ったわけです。そして、手話が普及するためには何でもしました。僕自身も、街頭に出てパンフレット配りをやったりしていました。
手話コーラスも、そのために使われていました。その頃は、手話普及のための宣伝塔だったのです。

しかし今では、手話は社会的に認知されています。すでに、手話コーラスの助けを借りる必要はなくなっています。
となると、ろう者にとっての手話コーラスの存在価値は、音楽を伝えてくれるものなのかどうか、にかかってくるのです。そして大多数の手話コーラス団体は、音楽を伝えるのに失敗しています。これでは、手話コーラスは評価されません。このままでは、ろう者は離れていってしまいます。すでに見限った人もかなりいるのですから。

しかし、どうも手話コーラスをやっている団体は、手話普及のためにやっていた頃の意識をいまだに引きずっているようです。ろう団体のほうはすでに意識が変わっているのにもかかわらず、手話が下手でも楽しければいいという気分がまだあるようです。
ただでさえ、二十年以上も怠慢を重ね続けてきたために、聴覚障害者にとっての印象を損ねています。本当は、もっと危機感を持たなきゃいけないはずなのです。

手話の下手な奴をステージに出すな

これが、まず最初にやるべき事です。
あまりにもあたりまえすぎて自分でも笑っちゃいますが、笑い事じゃないんです、ホントに。おそらく、手話コーラスをやってる団体でも、この問題があることは自覚していると思います。

なぜ手話の下手な人を出してはいけないのかは、いちいち説明しなくてもわかりますね。手話コーラスがぶち壊しになってしまうからです。コーラスに必要な統一感を損ねてしまい、コーラスがバラバラになってしまうのです。
こういう事をすると、せっかく見ていただいた観客に対して失礼であるばかりではありません。「なんだ、手話コーラスなんてこの程度のもんか」という感想になってしまい、手話コーラスの評価を損ねてしまいます。さらには、手話も「この程度のレベルが低い代物だ」という偏見をも生み出しかねません。

「手話コーラスの団体でも自覚している」のなら、なぜ手話の下手な人までステージに出しているのか? これはそれなりの事情があるのです。
その背景には、手話講習会による手話の普及があります。本来は、手話通訳ができる人材を養成するためのものですが、全員が手話通訳になれるわけではありません。やはり本人の資質などがあるわけで、大多数は専門コースにまで進めないままに終わります。でも、せっかく手話を習ったんだから何とか続けたい、何かに生かしたい。こういう人たちが手話コーラスに流れ込むわけです。
でまあ、手話についてまだ未熟な人たちが手話コーラスをやるわけですから、手話コーラスも下手なものになってしまう、というわけ。
また、手話について取り組みの姿勢が甘い人が多いので、厳しく指導するとたちまち止めてしまうため、活動を続けるためにも甘くせざるをえないという面もあります。

手話コーラスを運営、指導する立場の人にとって大変だというのは察しますが、でもこれじゃ、手話コーラスの発展にはつながりません。
下手な人をステージに出さなくても、使い道はあります。手話コーラスの合唱で、観客にも「いっしょにやりましょう」というのがありますね。観客の中にまぎれこんで、サクラ役をやってもらうのです。サクラ役の方も、ステージに立つよりは気が楽でしょう。すでに、これをやっている所もあると思います。

そして、真のエンターティンメントへ

前章に述べた「手話の下手な奴をステージに出すな」は、簡単にできるとは思っていません。しかし、必ず越えなければならないハードルです。手話コーラスのレベルを上げるためには、必要なことなのです。

手話コーラスをやるメンバーを高い水準でそろえることができれば、手話の下手な人のためにわざわざレベルを下げる必要がなくなります。手話の下手な人を面倒みる必要がなくなるため、さらにレベルの高い表現を工夫したり練習したりできるようになります。
そうしたら、さらに次の目標が見えてくるはずです。

実は、すでにこれをやっている団体がいくつかあるのです。
この団体は「手話歌のコンテスト」のページでも名前があがっており、実際に成果を上げているのです。

きいろぐみ

ウェブサイト:手話らんど きいろぐみ
「この手が僕らの歌声になる」表紙

実は、厳密に言うと手話コーラスの団体ではありません。出発点は手話コーラスだったらしいのですが、今では手話パフォーマンスをやる団体になっています。乞われれば、手話コーラスもやるでしょうけど。

その活動の範囲は幅広く、日本の各地でステージ活動をしているだけでなく、テレビ番組での手話表現などにも協力したりしています。まさしく、手話によるエンターティンメントを実現している団体です。

本も出ています。
「この手が僕らの歌声になる」南 留花
株式会社ヤマハミュージックメディア 発行
定価 1600円+税 / ISBN4-636-20747-5

Deaf-Unit

ウェブサイト:Deaf-Unit

聴覚障害者主体の、手話ミュージックをやる団体です。ろう者へ伝わる芸術性を追求しているそうで、いわゆる手話コーラスとは全く方向性が違うのです。

聴覚障害者がみずから音楽活動をしていることに、驚かれると思います。自分でいろいろと工夫をなさっており、独自のノウハウを持ってらっしゃるようです。その工夫の一端は、上記のウェブサイトで見ることができます。これを見れば、手話コーラスの方たちがやっている程度の工夫など、底の浅いものであることがわかります。

追記:

Deaf-UNIT は、2004年10月2日のコンサート(新宿文化センター)と「世田谷区聴覚障害者協会創立50周年記念大会」[2004年10月31日(日)]でのアトラクションをもって、活動を終了しました。初めから期限を区切っての活動だったのだそうです。しかし、その後を引き継いで音楽活動を続けるグループが、日本各地に誕生しました。最後のコンサートでも、そうしたグループたちが顔を出してくれていました。この新たに生まれたグループが今後どうなるか、楽しみです。

さらに追記:

現在では、こうしたグループたちは「手話ライブ」という新しいジャンルで活躍しており、聴覚障害者にも人気を博しています。特にコヤマドライビングスクールがスポンサーとなっているコンサート「D-RIVE」は一大イベントとなっており、毎回満員御礼となっています。
一方で、耳の聞こえない人に音楽を伝えようとしない手話歌をやっている人たちは、この手話ライブの事を故意に無視しており、話題にしません。これには次の理由があります。

が実はもう一つ、彼らは絶対に口にしないけど、感情的な理由があります。
彼らは、手話ライブを憎悪しています。
おそらく、手話ミュージックコンテストで不正行為をしたのがばれた影響だろうと推察しています。自業自得なのですが……

[追記:2009年5月6日]

でも、これって手話コーラスとは少し違う……

ハイ、わかります。どちらも、いわゆる手話コーラスの団体ではありません。手話コーラスからはずれていますが、それぞれに存在理由がある団体です。聴覚障害者にとっての音楽をそれぞれに追究した結果の、今の姿なのですから。

今の手話コーラスを改革する必要があるのはわかったけど、それでも手話コーラスの延長線上でがんばっていきたい、と考えるなら、それはあなたが自分で作ってください。その場合でも、上記に紹介した団体の事を知るのは無駄ではないと思います。いろいろな面で参考になるはずです。

この提言で、日本の手話コーラスのありようが変わってくれればいいなぁ……。


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