「遥かなる甲子園」以前

聴覚障害者を描いたマンガとしては、「遥かなる甲子園」(山本おさむ)が最高傑作だろう。実話をもとにした、ろう学校の高校野球の話だ。そして、マンガでの聴覚障害者の描かれかたが「遥かなる甲子園」でガラリと変わった、マンガ界でも画期的な作品である。映画にもテレビ番組にもなったので、知っている人は多いと思う。
ところで、「遥かなる甲子園」より前にもろう学校の野球を描いたマンガが二編あることは、あまり知られていない。永井哲の「マンガの中の障害者たち」ではどちらも一応紹介されているのだが、ここではもう少し深く掘り下げてみたい。

作品紹介

「まぶしい風」

[「まぶしい風」表紙] 南部ひろみ 1971年「りぼん」

1970年に愛媛県で、松山ろう学校が男子ソフトボールで優勝したという実話をマンガ化したもの。表紙カラーのページにも、全国大会に参加した松山ろう学校の写真が挿入されている。(絵の右下に斜めに入っている写真がそれ)
高等学校総合体育大会男子ソフトボールなのだから、高校野球連盟の高校野球とは別の大会なのだが、普通校と対等に戦って優勝したのだから大したものだ。そして、愛媛県代表として全国総合体育大会にも出場している。一回戦では 15対0 で圧勝するが、二回戦で敗退。当時は全国的な話題になったらしい。

[「ぱ」と発音することで細かく切った紙が吹き飛ぶのを示した、発音練習の図]

さて、マンガのほうは教師が主人公になっている。そして前半はろう学校やろう教育がどんなふうにおこなわれているかを具体的に紹介している。一般の人にはなじみのない世界であるため、読者への説明上必要な面もあって、きちんと取材した上で描いていることがわかる。
ただ、永井さんも「マンガの中の障害者たち」で指摘しているとおり、ろう学校の教師の視点で描かれている。ろう者自身の視点が全くない。この点は次に紹介する「あの美しい瞳をみたか」でも同じで、それだけにろう者自身の視点を導入した「遥かなる甲子園」がいかに画期的であったかがわかってくる。ただまあ、当時の社会状況を考えると仕方ない面もある。当時は障害者としての権利意識に目覚めたろう者がまだ少なく、まだまだ社会的に理解されていなかった状況なのだから。今のような扱いを当時に求める方が無理なのだ。実際、当時はろう学校での教育方針も口話教育主義が全盛で、手話を使うなどとんでもないとされていた。このマンガでも、口話教育が描写されており、手話での会話シーンはない。

[太鼓を使った練習光景] 主人公の教師が、耳の聞こえない生徒のために練習方法を工夫していく。個人別の長所・短所を記したカルテの作成、機敏性を養うため太鼓を使った練習、とこのマンガでは工夫例としてこの二つをあげているが、実際にはもっといろいろと工夫していたはず。マンガではそこまで紹介しきれなかったのだろう。そして、その成果は実際に上がる。

[試合中に手話するシーン]

そして後半に優勝戦の実況描写で盛り上げ、優勝決定をクライマックスシーンとしている。 手話を試合に使うシーンもある。「手まね」と書いてはいるのだが、野球のサインとは違うものとして描いている。これが手話を知らない相手校の動揺を起こし、試合を有利に運ぶ。このへんは野球でのろう者の有利な点だろう。離れたところからでも、相手に知られずにコミュニケーションがとれるのだから。

[優勝シーン]

百ページと長めの短編となっており、ドキュメンタリー性が強い。

「あの美しい瞳をみたか」

[「あの美しい瞳をみたか」表紙]

中森清子 1975年「マーガレット」

静岡県のろう学校中等部のソフトボール部の話で、若い女教師が主人公になっている。耳の聞こえない妹を交通事故で死なせてしまった経験があり、「ろう者だからこそ運動が大切なのよ」と考えて、ソフトボール部をやっている。
[ろう学校の教室の風景] 簡単ながら、ろう学校の教育場面紹介もある。

[出場禁止命令のシーン] 厳しい特訓をへて、地区予選で代表決定戦まで勝ち進む。が、ソフトボール協会から出場禁止命令。理不尽なしうちに悲しむ部員たち。全国的な抗議がまきおこり、ついに取り消しとなり、代表決定戦に出られることとなる。そして決定戦で勝利し、地区代表を勝ち取る。

[地区代表決定シーン] 1974年に福井ろう学校が全国高校軟式優勝野球福井予選で優勝しながらも、特殊学校だからと言う理由で北陸大会への出場を認められなかった事件があった。
このマンガは、内容から見て明らかに福井ろう学校をモデルにしている。協会から出場禁止され、全国的な抗議でとりけしとなった経緯が同じなのだから。
ただ、内容の設定はかなり違っている。

51ページと「まぶしい風」とくらべて半分の長さで、フィクション性が強い。

評論

実は、「あの美しい瞳をみたか」について福井ろう学校に問い合わせたことがある。こういうマンガがあることは覚えていたのだが、はっきりと聴覚障害者をテーマとしたマンガを集めようと考えるようになったのはだいぶ後のことだったので、このマンガは持っていなかったのだ。どの雑誌に載っていたのかも忘れていた。そこで、モデルになった福井ろう学校に聞いたほうが確実ではないかと思って問い合わせた次第。
福井ろう学校の軟式野球部の顧問をしていた竹内誠治先生から返事をいただいた。そういうマンガがあることは知らなかったそうだ。そして、軟式野球部はもうないとのこと。野球部を希望する生徒が集まらなかったらしい。
マンガでは女教師が主人公になっていたが、実際は男の教師だった。まあ少女マンガだから、女の子にとって感情移入しやすいキャラクターを主人公にしたのだろう。

ようやく入手できた「あの美しい瞳をみたか」を読んでみて、なぜ福井ろう学校がこのマンガを知らなかったのかの事情は大体推察できた。

[本の表紙] 「障害球児の栄光」竹内誠治 風媒社 [絶版]

福井ろう学校出場停止問題についてまとめた本がある。
本の表紙にムラがあるのは、僕の持っている本の保管がよくなくて、日焼けしてしまったため。何しろ、発行が1975年5月25日と、25年以上も前の古い本なのだから。
絶版なので、「詳細はこの本を読んでください」と片づけるわけにはいかない。長くなるが、必要な部分をここに引き写すことにする。

1974年に福井県の県大会で初めて福井ろう学校は優勝する。喜びの竹内先生は、しかし県高野連の理事長に呼び出され、北陸大会には出られないことを告げられる。
この本を読むと、竹内先生自身は、障害者差別な条項があることはうすうす知ってはいたが、はっきりとは確認していなかったようだ。以下に、その箇所を引用する。

軟野連では、各学校の監督で組織する理事会を年五回ほど開きます。一年ほど前の理事会で「ろう学校は夏の大会で優勝しても北陸大会には出られませんよ」と森永理事長がいったことが、たしかにありました。羽水高校の川原先生が、「そんなこといつ決まったのや。いっぺん本部へ問い合わせてみたら」といい、「そうだなあ、はっきりしたもんを問い合わせておこうなあ」と森永理事長。「そんならもしろう学校に一回戦で負けたチームはどうなるんや」という疑問も出されました。準優勝のチームを北陸大会に出場させることになるとも森永理事長はいっていました。当の私は、いささか腹も立ちましたが、軟野連に加盟してまだ一年。チームの実力はないし、優勝など思ってもいませんでしたから、その場ではたいして反論することもせず、「いちどはっきりしたものを文章化してみせてください」と頼んだにすぎません。
これだけですませてしまったのが大きな誤りだったことを、一年たったいま、思い知らされたのです。

こうして、出場停止された福井ろう学校だが、当然ながら選手も父兄も納得できない。そしてこの事件がマスコミによって差別問題として全国的に報道される。一方で高野連から「なんとか今年はあきらめてくれ」という妥協をせまる工作もなされる。このままずるずると北陸大会は福井ろう学校抜きで開催され、大会は進む。そして八月八日に北陸大会は富山商業の優勝で終了。

一方、全日本ろうあ連盟などの障害者団体が日本高野連に強く抗議、大会を後援している朝日新聞社・毎日新聞社にも差別を許さないよう要請していた。8月8日に日本高野連の全国理事会が開かれていた大阪の事務所の前でも、抗議の団体600人ほどが座り込みをしていた。
そして急転直下、高野連は福井ろう学校に対する陳謝とともに、全国大会への参加を認めることになる。

  1. 先に取り決めた「各都道府県高等学校野球連盟が特殊教育学校野球部参加について、指導、監督に責任の持てるもので、一都道府県内の大会に限り、特別にその参加を認める」という特殊教育学校野球部の参加制限は本日の高野連全国理事会で「地区大会および全国大会にも参加を認める」と改めることに決定。この旨早急に当連盟各評議員の承認を得たうえ正式にこれを決定することになりました。
  2. 福井県立ろう学校ならびに同校野球部に対する取り扱いについては陳謝の意を表します。
  3. 福井県立ろう学校はきたる八月二十五日から開催する第十九回全国高校軟式優勝野球大会に北陸代表として参加を認めることになりました。
  4. 当連盟の全加盟校に対しては今回の事件を契機に差別排除、フェアプレーの精神を積極的に推し進めるよう早急に通達します。

福井ろう学校のほうは、全国的な障害者団体が動いていたこと、大阪で高野連にたいして600人もの座り込みがあったことは知らなかったようだ。この日には北陸大会優勝戦で、チームは抗議を込めた観戦をしていた。その後に新聞記者から知らされて、全国大会への参加を認められたことを初めて知ることになる。

さて全国大会では、第一回戦に北九州地区代表の宇久高校と対戦して 0対3 で敗退。

この本の最後には、ろう学校の生徒数の減少にふれており、二三年後には野球ができるほどの部員が集まらなくなる現状を書いている。僕が問い合わせた時に、軟式野球部はもうないと言われたのは、これだったのだ。とりあえず、軟式野球部がなくなる前に全国大会に出られたことを喜びたい。
しかし、素直に喜べない面もある。これより前の「まぶしい風」にあったように、ろう学校であっても何ら差別なく、全国大会に出られた実例がある。本当はこうなるべきなのだ。

しかし実際には、後に沖縄の北城ろう学校野球部に対する出場問題が起きた。福井ろう学校の件で改められたはずなのに。
これが「遥かなる甲子園」につながっていく。