マンガの中の聴覚障害者 ↑トップページへ
学習漫画として出ている世界の偉人伝のたぐいがいくつかあるが、ここでは取り上げない事にする。
演劇「奇跡の人」をそのままなぞったマンガが二編、演劇がテーマで「奇跡の人」を演じるというマンガが二編。
水野英子 1965年「りぼん」
カットは永井哲所有の「りぼん」誌から取ったもの。
僕の知る限りでは、これがヘレン・ケラーの伝記を描いた最初のマンガ。この「ウォーワー」と叫ぶシーンがクライマックスとなっている。
あきもと渚 1976年「マーガレット」
同じくヘレン・ケラーの伝記。残念ながら本が手元にないので、カットの紹介はできないが、やっぱり「ウォーワー」と叫ぶシーンがある。
マーガレット・コミックス「氷のミラージュ」(集英社) 193頁
槇村さとる 1977年「別冊マーガレット」
「奇跡の人」を演じる話なのだが、主人公をめぐる人間模様を描いており、主人公が演じるヘレンにはあまり重点がない。
花とゆめCOMICS「ガラスの仮面」第12巻 47頁
花とゆめCOMICS「ガラスの仮面」第12巻 134頁
美内すずえ 1978年「花とゆめ」
少女マンガ最長の大河演劇ロマン。未だに完結していないので、「最長不倒」とはまだ断定できない。サイボーグ009みたいに、未完のままで終わってしまう可能性もあるし。
このマンガの主役は北島マヤということになってるが、もしかすると姫川亜弓の
演劇に関しては天才という少女たちが、それぞれのヘレン・ケラーを演じる。前者が姫川亜弓のヘレン、後者が北島マヤのヘレン。
このマンガでは、演劇「奇跡の人」が劇中劇となっており、ライバル同士が演じるそれぞれのヘレンが見物となっている。
「みみより」誌の連載の一つとして「ヘレン・ケラー神話」を書くために、国会図書館でヘレンケラー関係の本を調べた事がある。
ヘレン・ケラーの伝記は戦前・戦後の古いものがいくつもあった。が、内容はどれも同じだった。それぞれ本のタイトルは違っていたが、中身はすべてヘレン・ケラー自伝「わたしの生涯」から引き写したものだ。中には、文体を変えて手を加えて別な本として出したものもあったが、内容は変わらない。今だったら、著作権侵害で訴えられるところだろう。
今ではさらに二つ
の二つしかなかった。
余談だが、国会図書館で調べたときにヘレン・ケラーの写真集を見つけた。若いときのヘレンの写真もあった。すごい美人だった。たいていの人は、年寄ったヘレンの写真しか知らないだろう。僕が見たのは、ナイアガラ滝のそばにたたずむヘレンとサリバンである。あたりの様子をヘレンに伝えるために、手を取って指文字を使っていた。このシーンは、今の人が見ても萌えるだろう。この写真を見たことのある人は極めて少ないと思う。
花とゆめCOMICS「ガラスの仮面」第10巻 26頁
「ガラスの仮面」の中に、ヘレン・ケラー関係の本を読みあさっているシーンがある。知らない人が見れば、「作者は相当に調べていたんだなー」と感心してしまうだろう。が、実際にヘレン・ケラーの本をあさった経験のある僕から見ると、本当は資料を調べていないことがわかってしまう図だ。
ここに出ている本のタイトルを見ると、どれも実在しないものばかりなのだ。特に「奇跡の人」というタイトルの本は、実際には存在しない。「奇跡の人」は本来は戯曲であって演劇で演じられるものであり、本にはなっていない。この当時では、ヘレン関係の図書は前述した二冊しかない。だから、ここで出すべきタイトルは、ヘレンの自伝「わたしの生涯」になるはずだが、出ていない。
それと、ここに出ている本はすべてハードカバーとして描かれている。が、僕の知っているヘレン関連の図書でハードカバーなのは「愛と光への旅」と「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」の二冊しかない。ソフトカバーの本がないことから、「わたしの生涯」を読んでない事がこれでわかってしまう。
この本の部分はアシスタントに任せたからこうなった? なるほど、それはあるかも知れない。しかし、当時の資料をアシスタントに見せないで背景を描かせるというのでは、これはこれで問題がありそうな気がする。
目の前に資料となる本があるというのに、これを見本にしないで絵を描くアシスタントなんているんだろうか……。
ほとんどの人にとっては、ヘレン・ケラーというと真っ先に思い浮かぶのは「奇跡の人」のイメージだろう。特に、井戸端で「ウォーワー」と叫ぶシーンの印象が強いと思う。
しかし、実際には「ウォーワー」とは言っていない。このシーンは、戯曲家ギブスンの創作だ。もっとも、一般にこのイメージを定着させたのは1962年のアーサー・ペン監督の映画「奇跡の人」かららしい。
実際にはどうだったのかは、サリバン先生の手記「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」でうかがうことができる。確かに、井戸端で言葉の意味を悟るシーンはあったようだ。が、実際の状況は映画や劇・マンガのようなものとは異なる。
以下に、「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」での記述を示す。
井戸小屋に行って、私が水をくみ上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップをもたせておきました。冷たい水がほとばしって、湯のみを満したとき、ヘレンの自由な方の手に「w-a-t-e-r」と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。
ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も「water」と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は「Teacher」と綴りました。
(中略)
家にもどる道すがら彼女はひどく興奮していて、手にふれる物の名前をみな覚えてしまい、数時間で今までの語彙に三十もの新しい単語をつけ加えることになりました。
ごらんの通り、発声したという記述が全くない。そもそもヘレンが発音できるようになるのはもっと後の話で、この当時は発音訓練はしていなかった。発音しなくなって久しい状況で、声が出てくるという方が不自然なのだ。
「奇跡の人」のおかしな点は、ここだけではない。
マーガレット・コミックス「氷のミラージュ」(集英社) 160頁
この「クリスタル・レイン」のように、食事では気ままに家族の皿から手づかみで取って食べたり、気に入らないことがあると大暴れするシーンが「奇跡の人」にある。
これもギブスンの演出で、実際とは異なるようだ。「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」を読むと、そこに浮かんでくるのは野獣のようなヘレンではなく、聡明で子供らしい可愛い少女なのだ。
さらに言うと、前記の引用部分は「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」の中では、別にクライマックスシーンではない。日常の一画面であり、ヘレンの教育で大きな成長が見られた記録として書かれている。
だから、僕のように「奇跡の人」の演出に疑いを持って調べない限り、記述が平凡すぎて見過ごしてしまいやすい。このために「奇跡の人」の描写はおかしい、という声がこれまであまり出てこなかったのだろう。
「奇跡の人」は演出がかなり入っており、実際のヘレン・ケラーを描写したものではない事を示した。
しかし、世間に流布されているヘレン・ケラーのイメージは「奇跡の人」のそれなのだ。本当ではない架空のヘレン・ケラー像を構築してこれを神格化してしまう。ゆえに、この稿のタイトルを「ヘレン・ケラー神話」とした。
このヘレン・ケラー神話は、ヘレン・ケラーへの正しい理解を生まないだけではない。一般の人の持つ障害者像をもゆがめてしまう。ヘレン・ケラーはもっとも代表的な障害者として見られているからである。
「奇跡の人」の野獣のようなヘレンをもって、障害者全般に当てはめてしまう。ヘレンは元から聡明な子であったことを見落として、教育さえすれば「奇跡の人」のような事ができる、と思ってしまう。実際に、ヘレンのようになることを期待して我が子に無理な教育をしてしまう、障害児の親は多い。
こういう不自然なヘレン・ケラー神話は捨て去らねばならない。ヘレンの実像を見直さねばならない。
少なくとも、ヘレン・ケラーのイメージを「奇跡の人」に求めるのは止める必要がある。しかし、このマンガ評論で示したように、ヘレン・ケラーを描いたマンガはすべて「奇跡の人」を元にしている。「わたしの生涯」といった他の図書にもとづいた、ヘレンの実像に迫ったマンガは、未だにない。
いや、ヘレン・ケラーだとは書いてないが、ヘレンをヒントにしたマンガだったら、もしかするとあるかも知れない。次にそれらしいマンガを示す。
「フォルテシモで飛びたて!」矢代まさこ
1969年「少年マガジン」
ロマンコミック自選全集「矢代まさこ ノアをさがして」(主婦の友社) 118頁
ヘレンと同じく三重苦の少女だが、嵐の中で自然の響きの中から音楽に目覚めるシーンだ。
実は「わたしの生涯」の中に似たシーンがある。ヘレンが木の下で、ひとり嵐にあうのだ。あたりが見えず音も聞こえないにもかかわらず、肌で嵐の迫るのを感じる。矢代まさこは、この本からモチーフを得ているのかも知れない。
僕は、ここにあげた「奇跡の人」を描いたどのマンガよりも、この「フォルテシモで飛びたて!」を高く評価している。
ここで、発表年を見ていただきたい。水野英子「奇跡の人」よりわずか四年後で、他の三つの作品よりも発表が早い。それでいて他のヘレンものを描いた作品よりも優れたシーンを描いているのだ。戯曲「奇跡の人」のシナリオに頼らないほうが、より優れたマンガ作品になることを示した傑作だと思う。
「フォルテシモで飛びたて!」の後でヘレンものを描いたマンガ家は、この作品を読んでないにしても、後発であり資料調査の点で有利な立場にありながら「フォルテシモで飛びたて!」を超えられなかった点で不甲斐ないと思う。「フォルテシモで飛びたて!」を初めて超えたのは、山本おさむ「遥かなる甲子園」(1988年)となる。実に二十年近い長いブランクだった。
「ガラスの仮面」で、少なくとも当時すでに出ていた「わたしの生涯」「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」の二冊を作者が読んでいれば、どうなっただろうか。
少なくとも、その後のストーリーはずいぶん違ったものになったと思う。きちんと受け止めていれば、当時としては新しいヘレン像を示した、斬新な作品となったはずだからだ。しかし、「ガラスの仮面」の『奇跡の人』はすでに発表されてしまっている。今さら描き直しはできないだろう。
さて、今ではドロシー・ハーマンの「Helen Keller: A Life」(ヘレン・ケラー : ある生涯)という新しい伝記があり、まだ日本語訳は出ていない。これまでとは異なるヘレン像があるそうだ。
ヘレン・ケラーの自伝は日本でも『わたしの生涯』などが出されているが、ヘレン自身は「不平不満を活字にはしないものです」と語っている。つまりこれまでの自伝には語られていない、影の部分があるということだ。
この新しいヘレン像をベースにした、新しい作品の登場を望む。
このヘレン・ケラー神話を書いてからだいぶたっているが、「奇跡の人」のことをまだちゃんと書いていない事に気づいた。遅まきながら、「奇跡の人」の正しい意味を書いておきたい。
ほとんどの人は、ヘレン・ケラーのことだと思いこんでいる。間違いだ。正解は、アン・サリバンなのだ。
これは原題 "The Miracle Worker" を見れば、意味がよりはっきりする。意訳すれば「奇跡をもたらした人」ということになろうか。決して、「奇跡が起きた人」という意味ではない。これが「奇跡の人」と訳されたばかりに、このへんの区別があいまいになってしまい、ヘレン・ケラーを指しているという誤解になってしまったのだろう。
ヘレン・ケラーの名前は知ってても、アン・サリバンが何をしたのかをきちんと知っている人は案外少ないように思う。
実は、ヘレンを教育しただけではないのだ。その後ずっと、ヘレンの目の代わりをつとめ、指文字で通訳していた。そのヘレンへの献身は、死ぬまで続いた。ヘレンが大学で勉強していた時も、講義の内容を指文字で伝えていた。
「奇跡の人」はヘレンのことだと思いこんでいる人は、このアン・サリバンの終生の献身を知らない。ヘレンについては三重苦をのりこえた人、というイメージしかない。本当は、三重苦をのりこえてなどいないのだ。サリバンの献身があったからこそ、あれほどの活動が可能になったのである。
しかし、多くの人はこのサリバンの献身を無視する。そして次のような無慈悲な言葉を平気で言う。
「ヘレン・ケラーだって三重苦をのりこえたではないか、それより軽度のおまえがどうしてできない」
まったく、ヘレンが聞いたらそれこそ悲しむであろうに……見習うべきは、ヘレンでなくてサリバンなのに。
世界の偉人伝を描いた学習漫画をチェックしたら、面白いことがわかった。ヘレン・ケラーの描写が変わったのだ。
講談社学習コミック アトムポケット人物館2 「ヘレン・ケラー」
画-八木理英 作-柳川創造
監修-東京ヘレン・ケラー協会
2000年11月20日 第一刷発行
ご覧の通り、旧来のヘレン・ケラーのイメージを踏襲している。井戸で「ウォウ ウォウア」と言ったことになっている。
実はこの本の表紙に「三重苦をのりこえた奇跡の人」という表記がある。(ぉぃ)
これじゃ、前章に書いたような誤ったヘレン・ケラー像そのままじゃないか。東京ヘレン・ケラー協会よ、これ以上誤解を広めてどうするのだ。誤解をただすのが監修の仕事だろうが。
満点偉人伝 ちびまる子ちゃんの「ヘレン・ケラー」
キャラクター原作-さくらももこ
漫画-宮原かごめ
監修-関宏之(大阪市職業リハビリテーションセンター所長)
2003年4月30日 第一刷発行
それが最近の学習漫画では、「ウォーワー」シーンが消えた。井戸端で言葉の意味を知るシーンはあるが、発声シーンがないのだ。
シーンが史実に基づいた、正しいものになっているだけではない。これまであまり公にされてなかったヘレンの恋の話、日本の岩橋武夫の登場、とこれまでの伝記にない新しい内容が盛り込まれている。今の時点では、これがヘレン・ケラーを描いたベストの作品だろう。
実は、この「ヘレン・ケラー神話」を公開したのが2001年11月。
もしかすると、資料調査の段階で僕のこのウェブページが参考になったのかも知れない。もしそうだとすれば、このウェブサイトを作った甲斐があったというもので、こんなに嬉しいことはない。
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