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間違いだらけの手話コーラス | 手話のコンテスト

手話歌・手話コーラスの歴史

この手話コーラスの調査にあたって、「まずは歴史だな、うん」と考えた。定番ですな。
そしたら、だーれも歴史を知らない。本すらない。ウェブ検索!? ぜーんぜん役に立たなかった。(T_T) そもそも、「手話コーラスやってます」しか内容がないページばっかりで、手話コーラスそのものをキチンと説明したサイトなんてないのだ。
出だしは意外に難渋した。

それでも、日本聴力障害新聞の縮小版を地味~に調べ上げたりして、わずかなヒントをたどっていって、ようやく明らかにした事実。僕の労作ですぞ、ほめてほめて。(^-^)

最古の手話歌

現在残っている資料で確認できる、最古の手話歌を歌った人物は高橋潔。
大正三年に大阪私立盲唖学校の助教諭となり、大正十三年に校長に就任、昭和二十七年に退職。健聴者であるが、手話を巧みに使う。当時のろう教育で口話法に傾注していく流れに抗して、手話法を守った教育者である。この伝記は「わが指のオーケストラ」(山本おさむ)にマンガ化されている。

現在わかっている資料では、日本で最初に手話歌を披露したのは昭和七年(1932年)十月。大阪聾唖基督日曜学校で高橋潔が手話で賛美歌を歌ったという。「手話讃美」(サンライズ出版)によると、その流麗な手話は正に芸術的であったという。
もっとも「手話讃美」では、昭和七年の手話賛美歌の話は記憶にもとづいた伝聞の形なので、証拠としては少し弱い。

この賛美歌の手話歌は記録に残っていないが、記録に残っている手話歌もある。やはり高橋潔の手によるもので、「新三朝小唄」の歌詞と手話の振りつけが記されている。昭和二十九年(1954年)の作だ。これも「手話讃美」に写真が載っている。

「手話讃美」に載っている話をそのまま信じるなら、1932年までさかのぼれる事になる。ハッキリした記録にしぼるなら、1954年になる。
そしてその形式は現在の手話コーラスのようなものではなく、独唱だった。

キリスト教会で今も歌われている「いつくしみ深き」という手話の賛美歌は、高橋潔の手による翻案だと言われている。これも伝聞の形なので、資料的価値は割り引かなければならないが。この話を提供した人の話では「機会があれば、ホームページで公開したいと考えています」だそうなので、期待したい。

[「手話讃美」の表紙] なお「手話讃美」は地方出版社から出している本であり、元から発行部数が少なかったようで、現在入手しにくくなっています。本屋めぐりをしても、時間の無駄です。福祉関係の図書がそろっている図書館にあたった方が確実でしょう。
あるいは、地元の聴障団体に販売用として残っているかも知れません。僕の場合は、ワールドパイオニアで残っていた最後の一冊をいただきました。(^-^)

手話讃美 
川渕依子 編著、サンライズ出版 2600円
ISBN4-88325-079-2

※ open-comm メーリングリストで情報提供していただいた、石野さんと桜井強さんに感謝します。

[2012年3月10日 追記]

鳥取市立中央図書館のリファレンスにより、「新三朝小唄」は「三朝小唄」と同じメロディーと思われる、歌詞はまったく同じであるとのこと。

手話コーラスの起源

現在流布している形式の手話コーラスが広まりだしたのは、昭和52年(1977年)である。

[「手話でうたおう」表紙]  [四季の歌 図解]

「手話でうたおう その1」という手話図解付の歌集が発行されたのは 1977年8月1日、発行者は東京都ろう者協会 手話コーラス部。黒柳徹子さんの推薦もあって、手話コーラスがまたたく間に日本中に広まった。

元手話コーラス部員だった足立区の及川リウ子さんによると、手話コーラス部は昭和48年(1973年)に発足し昭和53年までやっていたとのこと。これだと、「手話コーラス」という言葉は1973年までさかのぼれることになる。ろう者が中心になって活動していたそうだ。

今の健聴者中心になっている手話コーラスの姿を考えると、元はろう者中心だったという話はけっこう意外である。しかし、及川さんの話をうかがうと、それなりの時代背景があったことがわかった。

安保世代のサブカルチャーから生まれた手話コーラス

及川さんが手話コーラス部を始めた頃は、安保反対などのデモ活動が盛んな時代で、若者たちはよくグループで歌を歌っていた。ろう者も健聴者と一緒にデモ活動をしており、その際にいっしょに歌を歌っていた。そんな時にろう者は歌にあわせて手話で歌っていた。これが手話コーラスの元になった。

[「漫画家残酷物語」に出てくる歌声喫茶のシーン]
永島慎二「漫画家残酷物語」(FUSION PRODUCT) 第二巻271頁
初出「甘い生活」1963年 東京トップ社「刑事」に掲載

左図が、永島慎二「漫画家残酷物語」に出てくる、歌声喫茶のシーンだ。当時には「歌声喫茶」というものがあり、若者が集まってはともに歌っていた。それが当時のサブカルチャーだったわけだ。

[日本聴力障害新聞の記事]
確かに日本聴力障害新聞を調べると、街頭で手話で合唱したという記事が見つかる。この記事は昭和48年(1973年)11月1日発行のものだから、手話コーラスが世に紹介される前のものなのだ。

この話で、手話コーラスがなぜ合唱(コーラス)の形になったのか、その理由に納得できた。

そのころはまだ手話歌はろう者メインだった。
その後、手話コーラスが広まるにつれて健聴者メインに変わってしまい、手話コーラスがつまらなくなってしまって手話コーラスをやめた。そのため、手話コーラス部も昭和53年に廃止となる。

手話コーラスを作った人の今

今ではどうしているのか、及川さんに聞いてみた。
ろう者協会に、手話コーラスの指導依頼を受けることがよくあるが、及川さんは断っている。音楽が楽しめないからという。

マンガ「きこえますか愛!」の関係を聞いてみた。というのは、作者の星野めみが手話を学んだのは足立ろう学校だとわかっており、及川さんは足立区ろう者協会の会長さんだからである。
星野めみに会ったことがあるかどうかは、「覚えていない」そうだ。マンガがあることは知っていて、持っているとのこと。

手話歌集「手話でうたおう」は、その1だけで、続巻はない。とっくに絶版である。東京ろう者協会の現在の姿である東京都聴覚障害者連盟にも、在庫はとうの昔になくなっている。
というか、実物を見るとわかるが、ぺらぺらの薄い本なのだ。

※ 手話コーラス部の話をしていただき、「手話でうたおう」を見せてくれた、及川リウ子さんに感謝します。

忘れられていた手話歌・手話コーラスの起源

こうして、手話歌の起源・手話コーラスの起源をともに明らかにすることができて、うれしく思う。
とはいえ、高橋潔の話は戦前の古い話なので忘れられていたのはしかたないにしても、手話コーラスをやっている人たちに起源が全く伝わっていなかった事には、改めて驚きを感じる。手話コーラスの本でさえ、この起源は全く書かれていない。

手話コーラスをやっている人たちの、手話コーラスだけにしか感心を持たず、背後にあるろう者の文化には敬意を払わないという姿勢は、はなはだ問題アリだと思うのだが、どうだろうか。


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