説経 小栗判官(おぐりはんがん)

「説経節」という中世の口承芸能がある。
次の図に示すように、長柄の大傘を立てて手にささらをすりながら物語を語るのである。説経節には悲しい物語が多く、悲しげな節で述べられるのを聞いて聴衆は涙を流す。

[往来で演じる説経者と聴衆] 『洛中洛外図』所載の八坂神社所蔵図の模写(部分)

あまり資料が残っていないため詳細は不明だが、発生は室町時代初期と推測されている。そして江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃に押されて次第に廃れ、今は途絶えてしまった芸能だ。

「説経節」と聞いて「お説教」を連想してしまう人は多いだろう。実際、関係がある。
「説教」の本来の意味は、仏の教えを人々に説き教えることだ。娯楽の少なかった中世では、寺で説教語りのうまい僧がいると人気が集まった。これが大衆芸能として転化して「説経節」となる。
説経節を語る者は僧ではなく、賤民だった。各地を放浪しながら民衆に説経節を聞かせることで、生計をたてていた。そうして各地に伝わる民間伝承や説話を取り入れ、民衆にわかりやすく親しみのあるものに変えていく。そうして、説経節の物語ができあがっていった。

「安寿と厨子王」の話なら知っているだろう。明治に森鴎外が書いた「山椒太夫」が有名ではあるが、元をただすと説経節「さんせう太夫」に行き着く。他にもいろいろな物語があるが、その中で最大のものがここに紹介する「をぐり」である。

作品紹介

「説経 小栗判官」 近藤ようこ

説経節で最大の物語「をぐり」をマンガ化したもの。
僕の持っているのは白泉社発行の書き下ろし作品だが、最近にちくま文庫として発行されるようになったので、入手しやすいだろう。

都の高貴な家に生まれた常陸小栗(ひたち おぐり)だが、常陸の国に流される。そこで相模の国の守護代、横山殿に照手の姫という美しい姫がいるのを知り、強引に婿入りする。
これを知った横山殿は、一計を案じて小栗を呼び酒の場で毒を盛る。

[毒をもられながらも「女の真似はなされるな」と横山につめよる小栗の図] 「説経 小栗判官」白泉社 80ページ

こうして家来ともども毒を盛られて地獄行きとなった小栗だが、家来たちは自分たちの代わりに小栗を娑婆に戻すよう、閻魔大王に願い出る。これに感じた閻魔大王は小栗を現世に戻すのだが、目も見えず耳も聞こえず、ものも言うことのできない変わり果てた姿となる。姿が餓鬼に似ているので「餓鬼阿弥」と呼ばれる。

[餓鬼阿弥の図] 「説経 小栗判官」白泉社 124ページ

閻魔大王からのことづてで、この餓鬼阿弥を熊野本宮湯の峰の湯に入れれば元に戻るという。餓鬼阿弥を見つけた藤沢のお上人は、車に乗せて「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」とお引きある。お上人は富士浅間神社まで引いて行き、この後次々と多くの人が代わり代わりに「えいさらえい」と餓鬼阿弥を引いて東海道を上がっていく。

一方、横山殿は照手の姫を相模川の「おりからが淵」に沈めるよう命じる。姫に同情した下僕は、殺さずに海に流す。こうして姫は「ゆきとせが浦」に流れ着き、ここから人買いに次から次へと売られて各国を流れ流れて、美濃の国青墓の宿の「よろづ屋」という遊女屋に買い取られる。
亡き小栗を想う照手の姫は「常陸小萩」と名のり、遊女になれという主人の話を断り、代わりに十六人分の水仕事を一人でさせられることになる。こうしてつらい奉公を三年間なされる。

かくして、東海道を上がってきた餓鬼阿弥を見た常陸小萩は、それが自分の夫であることを知らずに、夫の供養のために主人に五日間の暇を得て餓鬼阿弥を引くことになる。
が、自分の美貌のために人々の好奇の対象となってしまうことに気づいた小萩は、古烏帽子をかむり笹に幣をつけて狂人に装う。

[餓鬼阿弥を引いていく常陸小萩の図] 「説経 小栗判官」白泉社 148ページ

かくして近江の大津関寺まで引いた小萩だが、

ああっ この身が二つあったなら!
一つはよろづ屋へ戻したい!
一つはこの餓鬼阿弥の車を引いてやりたい!
心は二つ 身は一つ…!

と、餓鬼阿弥に名残を惜しむ常陸小萩。

[餓鬼阿弥の車にとりつく常陸小萩の図] 「説経 小栗判官」白泉社 150ページ

こうしてようやく湯の峰の湯にたどり着いた餓鬼阿弥は、次第に元の姿を取り戻す。

七日入れば両眼が開き
十四日入れば耳が聞こえ
二十一日入れば早くも物を申されます
その後四十九日には六尺二分豊かなる元の小栗殿におなりになります

復活した小栗は、常陸小萩(照手の姫)を迎えに行ってめでたしめでたしとなる。

実際の物語にはもっと紆余曲折があるが、それは各自で読んでもらいたい。説経節最大の物語なので、ここでいちいち書いててはものすごく長い文章となってしまう。
マンガのほうは現代語で書かれているので、読みにくいことはないと思う。が、できるものなら原文で読むことをおすすめしたい。もともと説経節は口述で物語るものであり、リズミカルな節回しになってて調子よく読めるのだ。それに、原文のほうが中世の描写がよくわかりいろいろな発見があり、おもしろく読めるだろう。

評論

これを書くまでに、思いがけず時間がかかってしまった。資料をあさると、次から次へと興味深い話が出てきてしまう。「これではきりがない」と気づいた僕は、調査を打ち切ることにした。たいして深く調べてはいないのだが、それだけでもかなりの分量になってしまっている。

中世の賤民の姿を映す説経節

身分差別制度は江戸時代に作られたものと、一般には思われている。「士農工商穢多非人」である。
が、被差別部落の歴史を調べた近年の研究では、確かに大部分の部落は江戸時代に作られてはいるが、その中核となる部落は室町時代にまでさかのぼることがわかった。つまり、室町時代にすでに、賤民階級が存在していたのだ。

説経節は、こうした中世の被差別民が作り上げた芸能である。歌舞伎も元は賤民が作り出した芸能ではあるが、支配者階級にも受け入れられ広まっていった。それに対して説経節は、ついに支配者階級に受け入れられなかった。
これを知れば、説経節の物語がなぜに悲しみに満ちているのかがわかってこよう。差別されて苦しめられてきた賤民の怨嗟の反映が、説経節に現れているのだ。みずからの悲しみを謡い、涙を流すことによってささやかなカタルシスを得ていたのである。

実際、説経節の物語には障害者がよく出てくる。中世では、障害者は非人とされていた。
「をぐり」でも、足の筋を切られて歩けなくされた女に、鳴子(なるこ)を鳴らして鳥を追い払う仕事をさせる話がある。「さんせう太夫」でも、盲目となった母が鳥追いしながら「つし王恋しや、ほうやれ。安寿の姫恋しやな。」と言うシーンがあるのは有名だろう。

[歩けない女が鳥を追い払う図]
「説経 小栗判官」白泉社 106ページ

さて、このマンガでは小栗が目も見えず耳も聞こえず、口もきけない餓鬼阿弥となる。三重苦の障害者だ。
これについては、(らい)病者の姿に重ねる説がある。また、車に乗せて運んでいく姿に、肢体障害で自分では歩かれぬ乞食の姿と見る説もある。どちらにしても、一般民衆からはじき出されて賤民に身を落とした姿であることに変わりはない。
各国を放浪しさまざまな賤民を見てきた説経者にとっては、おなじみの姿であった。

「をぐり」の話の中では、餓鬼阿弥は湯の峰の湯に入ることで復活する。神仏の霊験により救われる、当時の物語のパターンである。これにより、苦しめられている人々の救われることを夢みて信心を改めたことだろう。
説経者は、救われぬ悲しみの物語を述べながらも、神仏の霊験を語ることでわずかな救いを残していた。

まだ少ない障害者の歴史研究

中世の障害者の姿を見るには、説経節が資料となりうる。こうした賤民に関する資料は少ないのだ。支配者階級にとっては賤民は関心の対象外なので、正式な文献にはあまり出てこない。説経節の発生についてあまり詳しいことがわかっていないのも、こうした事情がある。
中世の賤民の研究が進んできたのは、かなり近年になってからだ。正式な文献だけによらず、各地の部落への地道な調査を進めてきた成果だ。これまでの教科書にあるような史観では、中世の姿を説明できないことが明らかになっている。

「日本聾史学会」という、ろう者の歴史を研究する団体がある。
何かの参考になるかと思って、個人研究論文集を注文して送ってもらった。しかしこれを読んでみて、力を入れているのは近代史ばかりであることがわかった。わずかに古代史の文献に出てくるろう者の紹介があるのみで、中世・近世にいたってはまったく報告がない。

まあ、研究報告がないのはある程度しかたないことだとは思う。この時代の障害者を研究するには、できあいの歴史書に頼っていてはダメなのだ。そこには従来の古い、かなり誤りが含まれていると予想できる史観にもとづいた内容になってしまっている。中世の被差別民の見直しが進んできたのもかなり最近の話なのだから、きちんと新しい障害者観を持って歴史を見直した歴史書など、今の時点ではあるわけがないのだ。

従来の史観が信用できない例を示そう。例の「座敷牢史観」である。
昔の障害者の話になるとよく「障害者は座敷牢に閉じこめられていた」という話がでてくる。が、この話はどこまで確認されたものなのだろうか? たまたまそういう記述がある文献が残っていると言うだけで、どこまで本当なのかろくに確認もしないままに文章の子引き・孫引きを繰り返していないか?
よく考えてみよう。そうすれば、次の疑問が出てくるはずだ。

そもそも座敷牢に閉じこめること自体、一般的な行為だったのか?
そうではない、ということはすぐわかると思う。
座敷牢があるような屋敷を持つこと自体、一般庶民にはできないことで、富裕階級に限られた話だと容易に想像できる。
話を富裕階級に限定しても、桟敷牢に閉じこめるのが一般的だったのか? ごく一部の例外的な例がたまたま記録に残っただけではないのか?
座敷牢がない一般庶民はどうしたのか?
わざわざ自分で新しく座敷牢を作って閉じこめていたのか?
それとも桟敷牢を持っている人にお願いして閉じこめてもらっていたのか?
桟敷牢が用意できるほどの富裕なら、付き人をつけて世話をさせることもできたはず。
桟敷牢に閉じこめたのと、付き人をつけるのと、どちらが多かっただろうか?
もし桟敷牢に閉じこめる方が普通だったのだとしたら、当時であっても人の情に反する行為だったわけで、そこに特別の理由があったはず。どういう事情だったのだろうか?

残念ながら、この疑問に答えた文献は見たことがない。
たぶんそんな考証自体が存在しないだろう、と僕は見ている。だとしたら、これからの研究をもって、解き明かさなければならないテーマだということになる。
ろくに裏付けもとらないまま想像だけで物事を決めつけてしまうのは、学問としてはあってはならない態度だということは、理解してもらえると思う。もしかすると、今の私たちが想像するのとはまったく違う状況だったのかも知れないのだ。

ちゃんとした障害者観を持った歴史書は、これから新しく作らなければならない。ありとあらゆる古文書を発掘しては読み解き、考古学的な技法も駆使して様々な視野から解明していかなければならない。地味で時間のかかる作業の蓄積が必要になる。すぐには成果の出ないテーマなのだ。
大変な仕事だと思う。

他のマンガと中世史のかかわり

実はこの資料調べで、他のマンガに出てくる内容と関係がある史実がいろいろと見つかった。ここでは二つだけにしぼって紹介する。

[無人島で「波の鼓」を見せる宗忍性の図] 白土三平「忍者武芸帳 影丸伝」第1巻 (小学館) 1463ページ

無人島で重太郎に「唐忍法 波の鼓」を見せる、唐人の(そう)忍性(にんしょう)。癩病におかされ、余命を無人島ですごすが、流れ着いてきた重太郎に波の鼓の技を教える。
実はこれ、鎌倉時代の律宗の僧、忍性のもじりである。癩病者や賤民の救済に力をそそいできた僧なので、白土三平は単純に名前だけいただいて来たわけではない。癩病者を救ってきた史実を知った上で作った人物なのは明らかだ。

[ドルクの僧を人質にとるナウシカの図] 宮崎駿 アニメージュコミックス ワイド判「風の谷のナウシカ」第2巻 (徳間書店)32ページ

宮崎駿「風の谷のナウシカ」で、奇妙な顔覆いをつけている土鬼(ドルク)の僧が登場する。これと同じようなものを、中世の絵画に見つけた。念仏会の絵なのだが、なかなか怪しい雰囲気をかもし出している。

[顔に覆いをつけて念仏を唱える図] 大念仏会(絵入り謡本『百万』)部分

まだあるのだが、きりがないのでこの二つだけにとどめておく。
実際には、これらのマンガは中世史のことなどわからなくてもかまわないように描かれているので、知らなくても困ることはない。しかし、知っていた方が味わいが深まるというものだ。