聴唖は手話を使うか

耳が聞こえなくて口での会話が苦手な障害を「ろうあ」と呼ぶ。逆に、耳が聞こえて口がきけない「聴唖(ちょうあ)」という言葉もある。多くの人にはあまりなじみがない言葉だろう。「大辞林」には載っているが「広辞苑」には入っていない、と辞書によって扱いがまちまちだし、差別用語だとする人もいる。
が、まあここでは「聴唖」という言葉を使うことにする。いちいち「耳が聞こえて口がきけない人」と書くのも面倒だし、読む方もくどく感じるだろう。すでに聴覚障害者の世界では「ろうあ」は差別用語でも何でもなくなっているのだから、これに準じて「聴唖」も同じ扱いで使うことにしたい。

実は、聴唖者が手話を使うというマンガがけっこうある。実際にはこういう障害者はあまりいないのにもかかわらず、なのだ。これを「障害者と手話に対する理解がないから」でかたづけるのは簡単だ。永井哲の「マンガの中の障害者たち」という本でも、「兄貴にさようなら」という作品について
「作者は『聴覚障害』と『言語障害』の違いを知らないまま、その両者をごっちゃにしてしまったのではないか?」
としている。

これについては「そう単純なものではない」というのが、僕の主張だ。これについてマンガ文法論から解明すると、新しい視点が得られ、より問題点を深く理解できるはずだ。

作品紹介

まず、手話を使う聴唖者が出てくるマンガ作品にどんなものがあるのかを紹介する。

兄貴にさようなら

[心配そうに手話で問いかける娘に「大丈夫」と答える青年]デラックスマーガレット秋の号 363頁

和田慎二 1971年
デラックスマーガレット秋の号 (集英社)

18頁の短編。主人公エコの兄がオシの娘と結婚すると言い出し、家族としても反対するが、家を出て行く兄貴を見送っていく……というストーリー。オシの娘は手話を使っており、人からの話は聞こえているという描写になっているので、ろうあ者ではない。

一度は単行本として「愛と死の砂時計」(集英社)初版に収録されていたが、その後の版では別の作品に差し換えられている。そのため、「兄貴にさようなら」が入っている「愛と死の砂時計」は、大変に貴重な本となっている。実は、僕がこの本を持っていたのだが、知人に貸したまま消息不明となってしまい、紛失したままになっている。しくしく……返してくれよー。

オシの娘との結婚に反対するという内容であり、障害者差別的な内容とも言えるものなので、他のマンガに差し換えられたのだろう。しかし僕としては、「オシ」呼ばわりの差別的発言よりも、オシが手話を使うという設定のほうが気になった。ろうあ者でなくてオシなのに手話を使う、というのに不自然さを感じたからだ。

フェアプレイス

[「野球」の手話を見せる姉] フェアプレイス 第1巻 54頁

矢也昌久 1997~1998年
ヤングジャンプ (集英社)

高校野球マンガで、主人公がキャッチャーの周防大志。大志の姉が聴唖で、大志への会話は手話である。

野球強豪校にいたが、障害をもつ姉のために転校、野球無名校に入るも野球は続ける。そこでバッテリーとなる投手を見つけ出し、甲子園を目指す。

聴唖者が手話を使うという設定に、「兄貴にさようなら」と同じ不自然さをこの作品でも感じてしまった。

パスポート・ブルー

[手話で聞くプー子に「うん…ねいちゃん」と答えるまっすぐ] パスポート・ブルー 第10巻 128頁

石渡治 1999~2001年
少年サンデー連載 (小学館)

このウェブサイトでは「宇宙飛行士と手話」で紹介済なので、簡単にすませる。プー子という少女が聴唖で、手話を使う。……やっぱり不自然さを感じてしまう。

その他のマンガ

ここからは、データはあるけど自分では持っていないマンガになる。

「さそり」『閻魔おとし』篠原とおる ビッグコミック(小学館) 1971年
主人公ナミが獄中にいる時、同じ獄中仲間の一人が言語障害者。手話で会話する場面がある。
「神の口笛」森山玉枝 フォアミセス No.23 (秋田書店) 1990年
主人公が言語障害で手話を使う。

聴唖について

実は、手話を使う聴唖者について調べてみたが、ほとんど資料がない。何人いるかの統計すら、無い。

しかたないので、まず聴唖者について調べてみた。次に厚生労働省の「身体障害児・者実態調査 平成13年」から抜き出したデータを示す。

障害種類18歳以上18歳未満
聴覚障害30,50001,4700
音声・言語・咀嚼機能障害3,4000500

この数字は、実際にはどもりや咀嚼機能障害といった他の障害もカウントされているので、まだ実際の人数を現したものとは言えない。が、「聴唖」と言える者の人数は、多く見積もっても三万人程度と推測できそうだ。

他の統計として、日本喉摘者団体連合会によると登録会員は一万人を超える(2003年)という。喉頭ガンなどで声を失った人たちの会であり、聴唖者全体から見ればまだ一部の人であると見ることができる。そうすると、少なく見積もっても聴唖者は一万人以上は確実にいることになる。

まとめると、日本での聴唖者は一万~三万人の範囲にある、と言えそうだ。聴覚障害者に比べると一桁少ない人数だ。では、この中で手話を使う人はどれくらいいるのだろうか。「全国喉摘者の会」のサイトを調べたが、手話については全く記述がなかった。食道発声法を重視しているようだ。本当に手話に関する資料がないので、以後は全くの推測になる。わずかなヒントからでも、おおざっぱな見積もりを立ててみよう。

open-comm という、聴覚障害者関係のメーリングリストがある。加入者は二百~三百人ぐらいか。このメーリングリストで、手話を使う聴唖者がどれくらいいるか聞いてみた。回答はたった一人、「そういう人が一人いる」だった。

一人当たり二百人の知己がいるとして、メーリングリスト加入者全体の知己の総和は四千~六千人。ただし知り合いが重複していたり、知ってても回答しない人がいると考えられるので、おおざっぱに割り引くとして、知己五百人のうち一人あたりが手話を使う聴唖者と見積もることにする。

一方、日本の手話人口は十七万人と言われている。本当に手話を使っているのなら、手話を使う聴唖者もこの中にすでにカウントされているはずだ。で、先に得た五百人に一人という数字を当てはめると、三百四十人となる。
もっとも、推測に推測を重ねた数字なので、正確な数字ではない。もっと幅を取って、数百人程度、とするのが無難だろう。
先の聴唖者人口一万~三万人からすると、聴唖者数十人に一人が手話を使うということになる。この比率なら、さほど不自然さは無いと思う。聴唖者を知っている人ですら、手話を使うのは少数だと認めているのだから。

きちんとした統計がなく、かなりおおざっぱな推測でしかないのであまり信頼はできないが、それにしても「手話を使う聴唖者」というのがいかに珍しい存在であるかがわかると思う。
改めてマンガを見直してみると、作者のほうは自分の描いている障害者が、実はかなり珍しいものだということを認識していないことがうかがえる。珍しい障害者だということを匂わせる描写が全く無いのだ。

手話を使う人がそんなに珍しいのなら、聴唖者は通常どんな方法でコミュニケーションを取っているのか?
これに対する回答が、次のカットだ。聴唖者が主人公の、将棋マンガだ。

[筆談で「よろしくお願いします」と書く紫音]「しおんの王」第1巻(講談社) 27頁
原作-かとりまさる 漫画-安藤滋朗

これを見れば、一発で納得だろう。何もムリして手話を使わずとも、筆談でいいのだ。

まあ厳密なことを言うと、食道発声法や人工声帯などで発音を取り戻す人もいる。ただ、これはかなりの訓練が必要で、誰でも簡単にできるようなものではない。また、ちゃんと声帯がありながら別の理由で会話ができない人もいる。
そうした中で、自分のコミュニケーション手段としてあえて手話を選んだ人も、少数ながらいるそうだ。しかし、まわりには必ずしも手話ができる人がいるわけではないので、日常的に手話を使っているとは考えにくい。
手話を使う聴唖者はいることはいるのだが、少数であることは間違いない。もっとも、きちんとした手話ではなくて簡単な身振りで日常の用をたしていることは、普通にあるだろう。

考察

前章で、聴唖者にとって自然なコミュニケーションの手段は筆談であることを示した。が、先に紹介したマンガでは、筆談を使っているシーンが無く、手話一本槍なのだ。なぜそうなってしまうのだろうか。これに対する回答は、一つしか考えられない。聴唖者を出したかったのではなくて、手話を出したかったのだと。
実際、手話が出てくる初期の作品になる「兄貴にさようなら」「さそり」は一九七一年に出たもので、この頃が第一次手話ブームにあたっている。

じゃ、素直にろうあ者を出せばいいではないか。どうして「手話を使う聴唖者」という珍しいケースをわざわざ選ぶのか?
そう、まともに考えればおかしいと気づくだろう。実はこれは、マンガの描き方 ― マンガの文法がからんでいるのだ。それを、これから解き明かそう。

障害の様子がマンガの文法で省略されている

[沙織が「料亭は初めて?」と聞いて「はい~!緊張しますー」と筆談する紫音]「しおんの王」第2巻(講談社) 211頁

見ての通り、沙織と紫音の会話のシーンだ。マンガを読み慣れている人には、何気なく素通りしてしまうシーンだろう。このたった二コマのカットでも、マンガの文法がいろいろと使われている。が、細かく分析しだすときりがないので、ざっくりといく。

一コマずつ見ると、登場人物の視線が読者のほうに向けられている。しかしだからといって、登場人物は読者を見ているわけではない。この二つのコマが組み合わさることによって、登場人物はお互いに対話相手を見ていると読者は了解する、そういうお約束になっている。こういうお約束が、マンガの文法なのだ。

実は、マンガを読み慣れていない人には、マンガは読みにくいものなのだ。マンガの文法が身についていないから、マンガの文脈を読み解くのに手間がかかってしまう。「ここではこういう意味と読む」という暗黙の了解の蓄積があって初めて、マンガは面白いものとなる。マンガを読むってのは、意外に知的な作業なのだ。

さて、このカット、実は不自然なところがある。実際の筆談がどういうものなのか、よく思い出してみるといい。
そう、紙に書き込んでいる場面が省略されているのだ。沙織さんからの「料亭は初めて?」という質問に答えるために、紙に書き込む場面があるはずなのだが、省略されている。しかし、あえて省略した結果、見た目ではスムーズな会話となっている。

実際には、筆談というのはけっこうもたつくもので、けっこうストレスになる。ろうあ者が筆談を使いたがらない理由の一つが、これなのだ。しかし、この「しおんの王」では、こういう筆談の苦労が隠蔽されている。見た目では、紫音は何の苦労もなくコミュニケーションができているという描写になってしまっている。

手話を使う聴唖者のマンガと誤解した例

[社長に怒鳴られる女の子] 「まかせてイルか!」第1巻(徳間書店) 11頁
原作-大地丙太郎 作画-たかしたたかし

[が、きちんと手話で反論する女の子]

次に「まかせてイルか!」、湘南でなんでも屋をやっている小学生の女の子三人組が主人公で、その一人がろうあ者。実は、はじめは手話を使う聴唖者だと誤解した。誤解した理由が、このカットにある。

町工場の経営についてアドバイスしているシーンなのだが、社長からの話がそのまま通じているように描かれているのだ。もちろん、手話通訳なぞまったく出ていない。そのくせ、女の子に手話通訳していない工員が手話を読み取っているんだ、コレが。こんな描写で、「聴唖者でなくてろうあ者だと読み取れ」と言うほうが無茶だ。

このマンガを読み進めると、聴唖者でなくてろうあ者だということがハッキリする。じゃ、あの不自然な描写はなんなのだ!?
この問いに答える前に、もう一つ例をあげよう。

[自了との会話シーン] 「草庵の画家 ―天才画家・自了(城間清豊)伝―」橋口まり子 「おきなわコミック」1988年3月号 161頁

このウェブサイトでは「琉球の南宋画の名人」で紹介済なので、作品紹介ははぶく。

自了はろうあ者だということは、残された資料でハッキリしている。それにもかかわらず、このマンガでは聴唖者という扱いになっている。「琉球の南宋画の名人」のページでは、「口が利かない人で独学で絵を学んだ」と書かれた本があるとしてあるのだが、実は僕は納得していなかった。複数の文献にあたれば、ろうあ者だということはすぐにわかるはずだ。

マンガの流れのために、障害の描写を変えた

「まかせてイルか!」「草庵の画家」この二作品を見ると、本当はろうあ者なのに聴唖者と見られる描写をしてしまう。ここに「手話を使う聴唖者」を読み解く鍵がある。

これらの作品で、きちんとろうあ者だとわかるように手をぬかずに描くと、どういう描写になるだろうか?

口での会話が通じないのは明らかだから、かわりの方法で伝える必要がある。「まかせてイルか!」では手話通訳しているカットが必要になるし、「草庵の画家」では身ぶりなり筆談なりするカットが必要になる。そうすると、スムーズな対話の流れが不可能になってしまう。それでは、マンガとしては読みづらいものとなってしまう、と作者はそう判断したのだろう。だから、マンガの流れを優先するために、設定のほうを変えてしまったのだろう。

スムーズな対話ができない、というのが聴覚障害のまさに「障害」の核心なのだから、ここを描写しなきゃ聴覚障害者を描いたことにならない。しかし、このページで紹介したマンガを描いた作者たちは、そう考えなかったのだろう。障害者を描写することよりも、マンガのスムーズな流れを優先したために、こうした描写になったのだと考えられる。

しかし、これはおかしくないか?
障害者として描写されることが多い盲人を例にあげるが、目が見えなくて苦労するさまを「流れがスムーズにならないから」という理由でカットしたりするものだろうか。それでは、わざわざ盲人を出した意味がないはずだ。実際、盲人を出したマンガではそれなりに盲人だとわかる描写がきちんとなされている。
盲人だときちんと描くのに、ろうあ者だと設定を平気でねじ曲げる。

これは逆に言えば、「こう描けばろうあ者だと読者にすぐわかる」描写 ― マンガの文法を作ってこなかったためでもある。これまで聴覚障害者をマンガに出してこなかったために、文法を確立できなかったのだ。たまに聴覚障害者を出す機会があっても、設定を聴唖者と変えてまで描写するのを避けてしまう。

これはハッキリ言って、マンガ家たちの怠慢だと思う。
まあ、障害者に対する理解がない、というのも一因ではあると思う。しかし、僕はそういうレベルの問題ではない、と考える。きちんと障害者を描写しようという意志すらなく、自分の都合で設定を平気で変えてしまうマンガ家の態度が問題だと思っている。でなければ、理解がなければないなりに、それなりの描写ができたはずだから。そこを通して、「こう描けばろうあ者だと読者にすぐわかる」文法が完成できたはずなのだ。現実に、盲人の描写がそうなっているのだから。
この機会にハッキリ言うぞ、マンガでの盲人の描写は必ずしも理解のあるものばかりではない。明らかに理解のないものだってある。それにもかかわらず、「こう描けば盲人だ」とわかるマンガの文法が確立されているのだ。

もっとも、「まかせてイルか!」より以前に手話を使う聴唖者のマンガが存在しなかったとしたら、あるいは「まかせてイルか!」程度の描写でも十分にろうあ者だと了解できたかも知れない。「しおんの王」の対話シーンで紙に書き込んでいるシーンが略されているのと同じように、「まかせてイルか!」でも手話通訳されているシーンが略されている、と見なすこともできるからだ。

だがいかんせん、すでに手話を使う聴唖者のマンガを見てしまった僕には、「まかせてイルか!」の描写では聴唖者に見えてしまう。この小論を読んでしまった人たちも、同様に聴唖者に見えてしまうはずだ。この小論によって、「これは聴唖者だ」と了解するという刷り込みがなされてしまったのだから。したがって、ちゃんとろうあ者だとわかるようにするには、「まかせてイルか!」のような描き方ではダメだということになる。まったく、先に手話を使う聴唖者のマンガを描いてしまったマンガ家たちは、軽率なことをしてくれたものだ。

この小論を読んでしまったマンガ家たち、あなたの手で、ろうあ者だとすぐわかるマンガの文法を確立してほしい。


[記:2006年6月21日]
[修正:2007年8月12日]